希義さん
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わしの生まれる400年ばぁ前のことじゃ、源頼朝の実弟が土佐の国に流された時の話を則光三郎が好きなように書いた小説じゃきに、適当に読んどぅせ。


「希義(まれよし)さん」    写真提供:大野建夫氏


 秋の長雨が続く十月(旧暦九月二十五日)

ここは野市町、田圃(たんぼ)が多く残る田舎町であったが、最近の道路整備と区画整理によって、街らしい雰囲気が漂うようになった。

 僕は高校一年、南国の農業高校に通う平凡な学生である…はずなのだが、僕は小学校四年生の時に特異な経験を持っている。

 そう!あの千と千尋の世界である。あの時は父の転勤で大阪にいた、小雨が降る暑い秋であったことを記憶している。

 いつもの様に小学校へ通学の途中、以前一度帰りに通ったはずの細い路地に、不意に入ってみたくなり、その路地を通って学校へ向かった(そう!入ってみたくなったのだ)。

 午前八時、その路地から抜け出ると、いない!誰も人がいないのだ。八時だ普段なら、通勤の人達や商店街の人達が朝の賑(にぎ)わいをみせているはずなのに…おかしいと思いながら学校へ入った、なんだか背筋が冷たくなった。
少し早いとは云え、やはり居ない、人・動物の気配がない、一応教室まで行ったが…突然後ろで声がした。

「振り向くな!カエレ!」

 背中に冷たい汗が流れていた、もと来た道を帰った、振り向かなかった、路地から出られた。

 野市の図書館は僕の隠れ家だ、山程読みたい本があり自分の世界をどんどん創れる、他の人たちに迷惑にならなかったら、あまり隣の人を気使うこともしない。

 この日は違っていた、雨が降り出した、農業高校からの帰り田圃(たんぼ)を仕切るような小路を自転車をキコキコといわせながら、早道のつもりで入ってみたくなった。

 図書館には誰もいなかった、小学校の記憶が薄れかかっていたのだ。二階への階段を上がりきると、すぐに左折れ、そのまま壁づたいに利用している部屋に入り愛読している歴史書を、いつもの棚から、ずっしりと重い本の感触を確かめながら、いつもの席へ僕の座る席から縦長の窓が正面にある、普段はブラインドカーテンが降ろされていたが、その日は開いていた。

 雨はどんどん激しく、大粒の雨がガラス窓にへばり付いては下のほうへ、ツーと流れ出している。本に集中して時を忘れていた、いつの間にか昼間の体育の授業で疲れていたのだろうか机にうつ伏せになって眠っていた。

 頭の中に誰かが歩いて来るような変なピチャピチャという音がしてくる、目が覚めた頭を上げて窓に映る自分を確認した。

 雷が鳴って窓の外の真黒に染められつつある景色を蹴散らすように稲妻が現れた、窓の裏は黒雲の帳(とばり)が下ろされ鏡となり、図書館の窓には僕しかいなかった。

“ピカッ”

 稲妻だ?鏡の中には僕と…もう一人?確認出来ない。

 ピッカピカ!後ろを振り返れない、金縛り状態になっている。

“ピッカ!ゴロゴロ” 光と音の間隔が狭くなってゆく、鏡となった窓枠のガラスの中に我々はいた。

 ピチャ!首筋に何かが当たった…刀の棟(むね)が首筋に固定された、切っ先(きっさき)と鎬(しのぎ)しか目に入らなかった。

「源三(げんぞう)!お前何をしているのだ早く来い」

「え!」

“ピッカ!どーん”落ちた 窓枠の真っ暗闇の中へ我々は吸い込まれた。

 土佐の国の住人、夜須七郎行家は夜須庄(現・夜須の高知県夜須町)の荘官である。平安末期、律令制度の乱れから荘園の永世私有の許可を得ていた。

 また一〇五〇年には京都の岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)・宝塔院(ほうとういん)から八幡神を勧請している。八幡神は夜須の港、古湊口(うどのぐち)に入港し西山へ西山八幡宮として鎮座して八町八反の社領を有していた。

【西山八幡宮】

 何故、八幡宮かと云うと、夜須七郎の先祖から七郎まで源氏好きなのである、知行国としての土佐の国を治める平家の圧制にも嫌気をさしてはいたが、それ以上に多田源氏の祖となる平安中期の武将・多田満仲への崇拝、また、藤原純友の乱を鎮圧した、清和源氏の祖となる源経基への武勇の憧れから八幡宮でなければならなかった。

 そして、源氏の祖である清和天皇が僧・行教をして、豊前国(大分県)より京都へ応神天皇を主座とする八幡神を奉安せられたのが
石清水八幡宮であるから、どうしても夜須へは石清水八幡宮でなければならなかった。

 また、八幡神は弓矢・武道の神でもある、夜須七郎にとって、その神以外には考えられなかった。

 政治的には、荘園の田畠を基礎に徴税するための基本単位を「名(みょう)」と呼ぶが、荘官であることは、その主(あるじ)であるため名主(みょうしゅ)と呼ばれ、

律令制度の定めに応じて、夜須七郎は租税支払いと課役の義務を果さなければならなかった。だが政治的地位を有する寺社を名義上の権利者とすれば、租税と課役は免れる制度になっていた。夜須は実質的な利益を確保していった。

 その意味でも八幡宮を勧請した意義は大きい。武力を養い手結浦の水軍をも保有し力を保持して来た。また手結(てい)の字の意味は、海上の交易が盛んに行われてきたことを示すことから荘園だけでなく海上でも大峰山(おおみねさん)(神奈備山)大山祇神の見下ろす元で順調に夜須七郎行家は大きくなって来たのである。

 当時は土佐の国司は小松内府(平清盛の嫡男、平重盛のこと)であったが、武将にして政治家の重責を担い多忙を極めていた。

 そこで彼は他者に管理をまかせて遙任し、代理管理者としての在庁官人は家人の蓮池権守家綱を国衙役人として高岡へ、平田太郎俊遠を宿毛の役人として土佐を管理せしめていた。

 平田俊遠の管理地が宿毛の訳は、中世において京都を中心とする官道、この場合南海道は土佐への道順として現在名で云うと和歌山→徳島→香川→愛媛→宇和島→宿毛→中村→高岡→朝倉→宗安寺→正蓮寺→一宮→岡豊の道順を辿って行ったからである。

 故に平田に土佐への官道の入り口を抑える為に宿毛に配置したのである。

 夜須庄の様な荘園は当時土佐の国において二十を数え、それらの管理も大変なことであったのだ。

 夜須七郎行家は希義が土佐冠者として介良へ幽閉されてより源氏好きの想いも現実となり手結浦で採れた、鬼頭魚(しいら)・鰹・鰯・鯵・鯖・ハゲなどの魚を介良庄へ行商人として持ち込んでは、希義のもとへ足繁く通っていた。

 介良庄は北に高天原(たかまがはら)、南に小富士山(別名気良富士)全国で富士と名のつく七十五山の一つで、さらに南へ続く鉢伏山に囲まれる様に広がる荘園である。


【左側奥:高天ヶ原、右側:気良富士(気良富士は地図中の潮見台緑地の付近です。)】


 また気良富士の北面をへばり付く様にして東西に道が通っている、西側の麓(ふもと)には朝峰神社(木之花咲耶姫)があり、また鉢伏山には、木之花咲耶姫の父、大山祇神を祀る神社がある。高天原は、その名を冠して古代よりの
古墳が点在している。

【鉢伏山】

 幽玄(ゆうげん)とした山を見ていると邪馬台国(やまたいこく)を思わせる古色(こしょく)蒼然(そうぜん)とした感を抱かずにはいられない。また高天原(たかまがはら)を西へ、ぐるりと廻ると大津に出る、ここから先は浦戸湾へ続く湿地帯、南方面へは国分川の支流から絶海(たるみ)の沼へ五台山の東を通過して下田川へと合流した地形となる。浦戸湾は東を介良、大津あたり北を、一宮、西を朝倉まで広範囲にわたり内海状態だったのである。

 希義は、父の義朝が起こした平治の乱(一一五九)で大敗したことで絡め捕られ、長男の悪源太義平は斬首、次男の朝長は自害、三男、頼朝は西伊豆の韮山の蛭島へ流罪、時に十三歳、九男義経は京都鞍馬山へ、そして絡め捕られた五男希義が土佐冠者として介良庄へ流されたのは永暦元年(一一六〇)わずか五歳の時であった。それより二十年間にわたり、この地に幽閉され続けてきたのである。

「希義殿、おいでますかいのうー」

 七郎の声は大きく太い、時として驚く時もある、背丈はそれ程高くはないが、日に焦げた茶褐色の皮膚、がっしりとした体躯は希義を安心させていた。

「やあ!七郎殿いつもありがとう、この前のしいら、新鮮でおいしゅうございました。アカムロや鰹も旬ですね。」

「魚の名前も憶えてくださって、鬼頭魚(しいら)は味噌ユノ酢と合わせたヌタで食べると土佐人らしゅうになりますぞ!希義殿、弓の稽古は順調の様でござりまするな、白水(しらみず)辺りの近郷の者に、それとはなしに聞きますと、早朝
より岩屋の辺りで足腰の鍛錬と、弓の訓練に相当お励みの様子、この七郎も安心してござりまする。」

「心配なされるな!冠者の身とはいえ、土佐の地へ参って、もう廿(にじゅう)年(ねん)ほど、体も七郎殿の様にはゆかぬが、大分しっかりして参った。弦も張替え強弓に近くなって参りましたゆえ。」

「ウンウン!嬉しゅうございますぞ、ところで希義殿、最近都においては清盛が後白河法皇との確執で内政の混乱が生じていると聞きまする、ご用心あれ!もしもの時は高天原より東、年越山(としこいやま)の東端へ参られ、それより東を
みれば三宝山(さんぼうやま)が壁のように反り立っております、その手前の元原部(もとはらぶ)島(じま)は深渕神社を目指してまいられよ、我々も即座に参ります。」

 深渕神社の歴史は古く須佐之男命より三代後の深(ふか)渕之水(ぶちのみず)夜礼花(やればな)命(みこと)を祀る全国唯一の神社である。場所は元原部島にあったとされるが、農耕神であるが故、出水により神殿が度々(たびたび)流され変座している、元原部島の地名は今にない。

【深渕神社】

 しかし今も物部川の水辺の近くに存在し、暴れ川の鎮めに祀られている。

「ところで希義殿、源三は役にたっておりますか?希義殿よりは、少々若こうございますが夜須では気の利く若者でありますが…」

「なかなか力も強く、腰腹の据わった良き奴で仲ようなり勉学も鍛錬も、共にの毎日でございます。」

「ん!鍛錬の方はさても、源三お前は希義殿の勉学の邪魔をしておらぬか?」

「滅相もございません、腰(よう)脚(きゃく)即(そく)心気界(しんきかい)丹田(たんでん)に気を満たらしめ万一の時には盾となる所存で毎日を励んでおります。」

「ウーン!その心意気なかなか宜(よろ)しい、日々を無駄に致すな。」

 源三は、毎日が充実していた、体の鍛錬の方は七郎に毎日厳しく鍛えられてきた、ここ介良へ希義の相手にと連れてこられてからはかなりの勉学も一緒に励んできたつもりであった、始めはついつい眠くなり辛い日々もあったが、暗記の方法を希義や世話係りの弥兵衛じいさんに教えられてよりは、面白くなり始めていた。

 ここ介良の地は宿毛の平田太郎俊(とし)遠(とお)の弟、平田三郎経(つね)遠(とお)が管理していた。経遠が娘の、のぞみは、時に孤独であった希義を介々しく世話をし相談相手となり情を深めていった。

「のぞみ殿、私のような冠者の側で世話をされては、世間が大そう騒がしゅうございはしませぬか?」

「いえ!私は希義様が可愛そうでございます誰に何を言われようとも、お世話をさせて下さいまし…」

 日々の身の回りの世話が若い二人を近づけ朝峰神社の参拝、介良庄での農作業なども、誰憚ることもなく、また二人の逢瀬を見咎めることもなく、彼の青春を彩っていった。


 新緑も美しい四月の或る日、鉢伏山は白水(しらみず)の山道への入り口の目印となる楠木(くすのき)の大木に手を掛けながら、希義は伏(ふせ)竹(だけ)弓(ゆみ)と真弓(まゆみ)の二本を持ち、矢は篠(しの)竹(だけ)を用いた手製の征矢(そや)を十数本持っていた。矢には立派な鏑(かぶら)は装着できなかった、筈(はず)も箆(の)の先端を削っただけのものであったが練習用には充分であった。

 足腰の鍛錬のため早足で山道を登る途中、弓矢の的になる木を捜していた。程よい大きさの姥目(うばめ)樫(かし)の枝葉があった。樹下に紫蘭の花が開花寸前であったので注意を払いながら、毛抜き型の太刀で打ち払い弓の的(まと)とした。

 さらに上へ駆け登る、中腹まで来た時、南を望むと稲生(いなぶ)の深田を這うように下田川の川面がキラキラと光って見える。所々に見える黄色い花は鬼(おに)田(たら)平子(びこ)か狐(きつねの)牡丹(ぼたん)であろうか?

 少しの雨でも物部川は古代流路を使って東から西へと水を呼び集め下田川の有るか無いかの低い堤防を乗り越え稲田へと侵入する。

 やっと植えた可愛い稲の苗は葉先を残して水没してしまう、そんな稲生の田畑を望みながら程なく大山祇神社の近くまでやって来た

 何時も練習に使う鬱蒼(うっそう)とした広葉樹林の中にあって木漏れ日が幾条にも舞い降りる、程良い平地だ。山桜の淡い桜色の花びらがチラチラと舞い降りる中で希義は枝ぶりの良い、栴檀(せんだん)の枝に先程の打ち払った姥目樫の枝を荒縄で括(くく)り付け、それをユラユラと揺らして目標から後ずさりしながら矢を番(つが)えるための距離を目測で測っていた。

 
【せんだん】

 神経を集中しながら、また呼吸を整え一本目の矢を長弓の伏(ふせ)竹(だけ)弓(ゆみ)の弦に番(つが)えた左手が弓の目標を定め握りのバランスを保ちつつ、右手で矢を絞り込み、的を射抜くチャンスを伺っていた。

 ブーンと弦(つる)が鳴く、的と矢羽(やばね)の遠ざかるのを一度に見ながら成果を待った、矢は舞い散る桜花を乱れさせ確実に真っ直ぐ飛んでゆく矢は大人になった希義の苦悩の歳月を感じさせない程、力強く見事にその距離を近づけ、的確に動く標的を捕らえていた。

 二本目三本目と矢つぎ早やに射抜いてゆく短弓の真弓に換えた時、希義は近くに人の気配を感じていた。

「誰!」

「私でございます。」

「のぞみ殿!」

 春とはいえ、まだ春の冷たきを押して、しかも女人禁制の山へ入ってこようとは!この鉢伏山の神社は、夜須七郎のいる霊峰大峰山も同じく大山祇神を祀っている。

 大山祇神は父を伊耶那(いざな)岐(ぎの)命(みこと)、母を伊耶那(いざな)美(み)命(みこと)、子は木之(この)花咲(はなさく)邪(や)姫(ひめ)、孫は海(うみ)幸彦(さちひこ)、山(やま)幸彦(さちひこ)である。


「のぞみ殿、ここは…」

「分かっています、朝峰神社の木花聞耶姫様には、十分お断りして参りました。」

 二人の重なり合う影を山桜や栴檀や姥目樫の樹木が、そっと包んでいった、降り出した春雨は二人の気配を消し鶯(うぐいす)や目白(めじろ)のちいさくも美しい鳴き声は彼らを祝福していた。

 下田川は薄い絹布の霧雨で包まれ、時の流れを遅らせるかのような穏やかな流れの水面(みなも)に小粒の雨滴がリズムよく波紋を幾重にも広げ、川の流れと複雑な模様を作りながら、時を墨水の世界へと誘(いざな)っていった。


 時は寿永元年(一一八〇)九月国衙(こくが)役人である蓮池権守家綱のもとへ平家より書状が届いた。

 『武衛(源頼朝)東国において義兵を挙給うにより希義、合力(ごうりき)の疑いのあるべく希義を誅すべし…』

との内容であった、蓮池は彼の本拠地としている高岡の林口の屋敷に宿毛の平田俊遠を呼び寄せた。

「平田殿、先般都より書状が下された。武衛挙兵の由、希義を誅殺すべしとのことだ!」

「…ハッ!蓮池殿、承知つかまつりました。で、出陣はいつに。」

 蓮池はお気に入りの青磁の茶碗を中空に翳(かざ)して眺めていた目線を平田の方に、やおら向け直して、

「今すぐじゃ!下知がいつ知れるとも分からぬ参ろうぞ!」

 平田俊遠はあせった、弟経(つね)遠(とお)が娘、のぞみと希義のことは経遠から報告を受けていた。

 一瞬の逡巡のあとー

「準備いたします故、半刻程のご猶予を…」

「急がれよ」

 平田は家臣の茂兵衛を呼んだ「……」小声で聞き取れない、茂兵衛は急を知らすべく闇に紛れた。

 蓮池、平田は数十騎を率いて高岡を出立、荒倉を越え、朝倉から宗安寺、円行寺、正蓮寺と国分へと繋がる官道、南海道を急いだ。

 茂兵衛は急ぎ馬を走らせ、高天原辺りで馬を放った、あとは気良富士の北側中腹にある砦の見張りに感ずかれぬよう高天原の南斜面を滑るように介良庄の番屋、のぞみがいる屋敷へ駆け込んで行った。

「のぞみ様、茂兵衛でございます。」

「何ようじゃ!」

「小松内府より武衛の挙兵による、希義様の討伐の下知があり蓮池殿、伯父様の平田殿が向かっておりまする、一刻も早く夜須殿のもとへ参られますよう…」

「なんと!今、希義様のもとへ参ります。」

 何とゆう運命の悪戯か、のぞみは希義の子を身ごもっていた。この子は後に吉良八郎希望となる人物である。

「希義様!大変でございます、兄上頼朝様の挙兵に伴う蓮池の討伐隊がこちらへ向かっております、夜須様のもとへ…」

 この日が来るのは分かってはいたが、のぞみのこともあり己の身の処し方に苦悶していた、やがて意を決したように

「のぞみ、一時(いっとき)の別れと思うて…出立(しゅったつ)すること赦してくれ。」

「きっと生きて、この地へ戻りこのお腹の“やや”の父として迎えに来て下さりませ」

「しばしの別れぞ!」

「若、お急ぎを…」

 爺の弥兵衛は、二人の最後の別れになるかも知れない会話を遮って言った。

 弥兵衛は知らせを受けた時、直ぐ夜須のもとへ伝令を走らせた、後は一刻の猶予なき時間との戦いだ。

 狭隘(きょうあい)な高天原と気良富士の谷間(たにあい)を砦の見張りの目を逃れて脱出できるか、また夜須までの道を間違いなく辿って行けるか、弥兵衛の
頭の中は、もはやそのことで一杯であった。

 爺の弥兵衛や皆から元服のとき祝いとしてもらった土佐駒の青龍も出立の準備が出来ていた、背は低かったが軍事農耕にと良く使われる馬で青龍は若武者、希義と共に成長してきた。

「皆のもの、参るぞ!」

 総勢と言っても、従者は僅か幽閉の身は、何につけ窮屈であった、希義の背中にのぞみの声が飛んで来た。

「ご武運を!」

 希義は大きくかぶりをふった、源三は馬の口をとらえ希義を案内するかのごとく静かに滑る様に進んでゆく、介良庄は朝峰神社の西へ広がっている点在する人家を抜け樹木の茂る北側の木々の間を通り高天原の南斜面を、ズルズルと滑るように進んでいった。

 源三は青龍の嘶きを少しでも抑えようと必死だった、道なき道は源三だけでなく希義の部下達をも苛立たせた。

“ヒヒーン”

 吉良富士の砦は気が付いた、希義を逃がしては蓮池、平田に叱責を受けその責めを受けることになる彼らとて必死なのだ。

 直ぐ砦から兵が飛んで来た、また伝令が蓮池のもとへ出された物部川の古代流路は香長平野の上を蜘蛛の巣のように細かい網目状に広げている、砦からの兵は直ぐ追いついたかのように見えた、しかし網目状の流れに阻まれ思う様には進まなかった、高天原の東端で兵達は鏑(かぶら)矢(や)を弓に番(つが)えた。

“ビューンビューン”

 幾条にもなって矢が飛んでゆく、まるで目の粗い簾(すだれ)が覆いかぶさる様な矢の攻撃だ、希義の従者達も簾の矢を打ち払うのに忙しい、源三は急ぐあまり見向きもせず年越山を目指して青龍ごと引張りながら一目散だ。

 そのとき異様な音がしたプスプスと矢が地面に刺さる音とは明らかに違う、源三は振り返った

「アッ!!しまったぁー」

 青龍の腹に一本の矢が刺さっている…大きく前脚を上げた青龍は背の希義を投げ出し源三をも振り下ろす前脚で、打ち倒して倒れ込んだ、源三は気を失った。

 希義は投げ出されて違う道へと踏み込んだ時は風雲急を告げ、風がビュウービュウーと雷がゴロゴロと怪しげな音を立てていた。


弥兵衛からの伝令を受けた夜須はすぐさま馬に飛び乗り、

「蓮池らーが動いたぜよ!手筈どうり出航の準備をし全部かまえちょけ、おんしらーへんしもじゃー」

 夜須七郎はあせっていた。

「介良から夜須までの時間、なんぼゆうたち小半刻はかかちゅうろうき、なんとか間に合てくれ!」

 月見山の南端に荒い波しぶきが掛かるのも難なく馬を走らせ北へ清盛が甥、能登守教(のり)経(つね)が土佐沖を航行中、嵐に遭いその鎮めに矢を
放ったとされる徳王子の若一王子をすごい勢いで通過しようとした時、俄かに黒雲が空を覆いポチポチと雨を降らせ始めた。

 夜須は不安を隠しきれないでいた

「ウオオオーぉ」夜須の雄叫びはすさまじかった。


蓮池、平田は一宮(いっく)・徳(とく)谷(たに)を通り国分川をわたり川原島から南に大津を見ながら長崎山、高天原にさしかかろうとしていた。

「蓮池殿今しがた介良より伝令が参りました希義出奔(しゅっぽん)、東へ向かっているようでございます。」

「如何いたしたものか?」

「蓮池殿、ここは私平田が年越山の南を廻り追いつけば打ち払いましょう、もし逃れた時のため蓮池殿は北側を廻り国分寺へ逃げ込まれては夜須の加勢も考えられましょう、国分寺への退路を断ちつつ希義に追いついて下され。」

「うぬ!合い分かった。」

 蓮池らは年越山を挟む作戦にでた、この後(あと)平田はのぞみに身を隠すよう使いを送った。

“ピッカ!どーん”

 雷の叫びは凄まじかった

 希義は、異世界を彷徨(さまよ)っていた源三を連れて帰って来た。

「源三おきよ!」容赦なくケツを蹴られた。

希義は降ってくる矢が源三に当たるのを防ぐため刀を持たなければならない手が塞がって蹴飛ばしたのだ。

「ウウー」僕は気が付いた。

「あれっーここは何処?」

“ヒュウー”側(そば)で青龍がモガキ苦しんでいる

「赦せ青!」

 もがき苦しむ青龍を見てはいられなかった

刀を首筋に当てた一気に死なせるつもりだ、

当てた刀を滑らせた血がほとばしる、青龍は静かに目を閉じた、希義の頬には彼自身の涙と青龍の血とが幾筋にも流れ出して止むことが無いように思われた。

「いったいどうなったのだ僕は?」

 小競合いが始まっていた、弥兵衛が駆け寄ってきた。

「源三、大丈夫か?若、急ぎましょうぞ」

 僕は起き上がり血で濡れた手を着物でぬぐいながら辺りの異様さに身構えた。

 ここは高天原の東、病院がないバイパスは?田と畠と入り組んだ用水路?前方を見ると年越山、今まで読んでいた歴史書からなんとなく事情が飲み込め始めた。

【年越山(としこいやま)】

 戦いの最前線では、希義の兵が多勢に無勢とはいえ、よく戦っていた、しかしその数から言って勝敗の決着は時間の問題だ!

「そうだ東へ行かなければ。」

 希義の左手に持った弓に矢を番える一連の動作は習熟され一つの型となっていた、全てが体の一部の様に滑らかだ、僕はこの場にありながら希義さんが美しいと思った。

“ビューン”正確に敵を射抜いてゆく

「希義さ…まれよしどの急いで夜須へ参りましょう。」

“ビュー” “ゴロゴロ”

 雲はぶ厚く黒雲と黒雲の境目にチロチロと風神と雷神がその恐ろしげな顔を覗(のぞ)かせていた。

“ビユー” “ゴロゴロ”

 二神が相談し合うかのように風と雷の音は激しさを増していった。

 よく戦った泥まみれになりながら後ずさりをし、群がる敵を押し返しながら年越山の東端まで来ていた。


 蓮池は国分寺への道を防ぎつつ北回りで、年越山の東端まできた。

「いたぞ!」

 蓮池の馬は白粉(おしろい)花(ばな)を蹴散らしながら大きく東へ回りこみ希義の退路を断った

「若!もはやこれまででございます。」

 弥兵衛は言った…“お覚悟を…”と言いたかったのであろうが、この幽閉された二十年を走馬灯(そうまとう)のように思い出したのであろう言葉にならなかった。

 弥兵衛は生きる術(すべ)を希義に教え込んで、時に厳しい師匠であり優しい父でもあった。

「源三、お前は我々が敵を引き付ける間に夜須殿のところへ何とか辿り着け、事の顛末(てんまつ)を必ず申し上げるのじゃ!」

「いえ私は共に戦う所存で…」

「命を大事にいたせ源三、生きれる命ならば尽きるまで全うするのが人間ぞ」

 最後まで弥兵衛には教えられた。希義は矢を番え敵を牽制しながら言った。

「源三世話になった、夜須殿にくれぐれもよろしく伝えてくれ、源氏の再興に協力できなかったことは口惜く残念じゃ…兄上にそう申し上げてくれ、夜須殿に伝えよ……さらばじゃ源三!」

 希義は弥兵衛に向き直って深々と頭(こうべ)をたれた。

「爺、世話になった。」

「何を、おっしゃいますやら、またあの世でお会いましょうぞ!」

 弥兵衛は希義と目を合わすと意を決した様に敵に向かって斬り込んで行った。

「今じゃ源三」

 ぐずぐずしている僕のケツを思いっきり蹴飛ばした、僕は前のめりになりながら彼らの意を伝えるべく枯(す)尾花(すき)の目立ち始めた草むらに紛れ込んでいった。

 弥兵衛は健闘した何人か切り殺したが四方を囲まれ一斉に切り込まれ最期を遂げた。

 希義は最後の矢を番えると両足を大地にしっかりと踏ん張り一矢を渾身の力を込めて放った、雷・風ともに激しくなって来たが希義の心は明鏡(めいきょう)止水(しすい)の如く静かだった、刀を抜いた彼と共に生きてきた部下の顔を思い出しながら斬り込んだ、鍛錬された肉体は自由自在に動いたが敵の一刃(いちじん)を受ける度(たび)に知らず知らず体の自由は奪われていった。

 背後から槍が前の敵に気を奪われていた希義はその痛みを感じるまで気づかずにいた。

振り返った違和感を感じた背の槍を握った、手に血が止め処と無く流れている、息が荒くなった左手に刀、右手に槍の柄を握ったまま、蹲(つくばい)の姿勢を取らざるを得なくなった。

 息も絶え絶えとなった希義はついに捕らえられた、蓮池の配下の兵が希義の両腕を絞りあげた首を打たれるのだ。

 希義は自由の効かなくなった肉体とは別にのぞみに礼を言っていた
〈沢山の世話になった、いつ果てるともしらぬ、この身を按じ助けて貰ったこと心から感謝する、まだ見ぬ我が子に会いたかった、その小さいであろう手や足や体を抱いてやりたかった…〉もう言葉にならなかった。

 馬上から見下ろしていた蓮池は満足そうに事が進むのを見ていた。


 風神はみていた。

 雷神はみていた。


 希義の無念の想いを、怒りを、彼らがそれに取って替わろうとしていた。

 従者は刀を振り上げた
“ピシャー”閃光と轟音が天と地を…繋がった、天の神々の怒りが炸裂した、希義も含め五・六人がすっ飛んだ。

「くわばらじゃー」誰かが叫んだ。

“ゴォォォー”強い風が視界を遮った。

 土佐の地に於いて、菅原道真公の祟りは、その息子・高視(たかみ)の土佐流罪より死に至り、真実であるがため雷神風神は彼らの化身であることが強く信じられていた。

 大騒ぎとなった神よりの懲罰として落雷をうけたのだ、誰が誰か判らなくなった。平田は蓮池の動揺を目の中に捉えていた。

「蓮池殿これでは騒ぎが納まりますまい、ここは夜須追討を先にして、ここを離れましょうぞ。」

「いや!しかし希義の首をおくらねば…」

「送ったところで誰も希義などみたことなど見たことなどないはず、そこらの死んだ兵の首でも送りましょうぞ。」

「いや、まことそうじゃ。」

 平田はせめて遺体だけでも、のぞみに埋葬させてやりたかった。


 源三?いや僕は、鳶ヶ池の南を蓮池・平田に気づかれぬよう這うように進み、ここは農業高校の茶園のあるところで南に高校が…当然のようにない、凄まじい光に圧倒され振り返った天地が繋がり騒然となるのを見た。

 急がねばならない体育のだらけた走りは通用しない夢想の走りに変わっていった湿地を駆け抜ける時は難波走りになっていた、足がぬかるみから抜けないのだ、岩村(いわむら)辺りまで来た時目から涙が溢れ口は開けっ放しで、涎が出て呼吸は浅くもう駄目だと思った。

 物部川からの支流の泥濘(ぬかるみ)に右足を取られ左足は草のもつれに足をひっ賭け、まさにたおれ掛けんとした時両腕を誰かにムンズと?(つか)まれ引き起こされていた。

“ああ!とうとう捕まったのか?首がー”

「おい源三大丈夫か?」

 体中泥だらけボーとした目で左右を見るとどうやら味方らしい

“それにしても僕は源三さんに似ているらしいご先祖さんかも知れない?”

 夜須七郎に先行して出発した弥七と権六の二人である、源三の話を確認するとすぐに元来た道をとって返した。

 七郎は徳(とく)王子(おうじ)から新宮(しんぐう)へ三宝山(さんぽうざん)の中腹を横切るようにして大谷へ、そして野々宮(ののみや)の深渕神社まで来ていた、深淵はその名のごとく河童(かっぱ)伝説(でんせつ)も有り川は深かった一箇所、舟(ふね)渡(わた)しの地名を有する所のみ歩いて物部川を渡れた、雷雲が年越山をぶ厚く覆っている、雷神風神の出現を七郎は目を見開いたまま凝視していた、悪い予感を払拭しきれないでいた。

 弥七と権六が源三を引きずりながら帰って来るのが見えた。

「源三!申せ。」七郎の弟小塚八郎が言った

「すみません大将、希義殿は…」

 言葉にならなかった涙がボロボロ流れ出て止まらない、七郎は大方の事情を察した。

「ウオォー!」雄たけびを上げた。

 七郎の目はギラギラ光り血眼(ちまなこ)となり、髪は鬢(びん)のあたりから斜め上に逆立ち、恐ろしい形相となった。

 もしこの状態から馬を走らせてしまうと蓮池平田との戦(いくさ)になってしまう、弟の小塚八郎は七郎の馬の前で両手を大きく広げ大の字になってゆく手を防いだ。

「八郎ォお前!」

「兄者!ここは希義殿の意を兄上様の頼朝殿に伝えるためにも撤退じゃ、今皆死んでしもうたら犬死にじゃ希義殿のためにも、たのみますきに。」

 弥七と権六は七郎の馬の左右の鐙(あぶみ)の脇に立ち、七郎の足を鐙ごと抱え込んだ。

「おんしらぁー何しよらあぁ!」

 七郎は鞭で二人をしばいた。

「大将!たのみます、ここはどうぞ堪(こら)えて下さい。」二人は声を揃えて訴えた、七郎の性格を知り抜いている二人にとって鞭ぐらいは何でもなかった。

 馬が飛び出て行っては、夜須の家族全員が殺され領地は没収されてしまうだろう、七郎は意を決した。

「撤退じゃ!」

 八郎は、ここで蓮池平田に追いつかれては拙(まず)い、船の仕度が出来ているとは云え、まだ時間がかかる一刻の猶予もないことを十分承知していた、弟の八郎は七郎の馬の轡(くつわ)を掴み方向を夜須向けさせ、未練そうに年越山の方を見ている七郎の意を遮るかのように馬の尻を叩いた。


 夜須七郎行家は本来ならば希義と伴に逃れるはずの船に一族配下の者と一緒に手結の浦の南、仏ヶ崎より正に出航せんとしていた。

【仏ヶ崎】(沸岬の付近)

 崖っぷちには、もうすぐ土佐の海岸を彩る潮(しお)菊(きく)の蕾が潮風に煽られユラユラと揺れていた、七郎はこの黄色い筒状花の花芯が粒粒(りゅうりゅう)と咲く頃、希義と船に乗り潮風を切ながら鎌倉へ行くのを常に夢に描いていた。

「兄者!」小塚八郎は艫(とも)の綱を解きながら声をかけた。

「なんなら!」七郎は乱暴に答えた。

「蓮池からの和睦の使者にかーらん。」

「なんつぜよ和睦?」

 二人の使者は蓮池によって送られてきた。

「八郎奴らを連れて来い。」

 蓮池平田は夜須川の川向こうに陣取っている、うまく夜須を引き留(と)めて殺そうとする魂胆であった。七郎は希義と一緒に戦えなかったことが腹立たしくイライラしていた、そこへこの使者二名である。

 砂浜に床机(しょうぎ)が構えられ七郎は刀の鞘(さや)の小尻(こじり)を砂浜に突き刺して座っていた、二人の使者は夜須七郎が思い留まり和睦に応じるなら褒美が貰えると蓮池に言われていた、二人は座った。

「夜須殿、蓮池よ…」

 鞘を突きたてたまま七郎は鍔(つば)に親指を掛けじんわり鍔を押し出すように鯉口(こいぐち)をきった!

刀の刃がシャリシャリと鞘(さや)を削る音を残して体が前へ弾け跳んだと思うと大きく振りかぶった刀は七郎の体の後方をついてくる、やがて目的物である右側の使者の手前で体を絞り込み切先(きっさき)が七郎を追い越してーズバッー袈裟に一人目を、刀を反(かえ)したと思うや否や二人目は使者が抜きかけた刀を逆袈裟で払い飛ばし鬼の如くの形相で天空にかざした刀を横に倒して胸板が盛り上がり腰を一段落としたと同時に横に払った。

 飛んで来た!僕の前に二つともゴロゴロ、思わず後ずさりした(ゲゲ!)僕の着物に噛み付いた失禁した波打ち際に飛び込んで……

そこから先はまた憶えていない。

「もしもし」声がする。

 僕は椅子に座って机の上をクロールしていた体中汗びっしょりだ。

「もしもし」いつもの係りの女性の声だ、助かった!

「もう閉館の時間ですよ。」

 重い体を引き摺りながら係りの女性に、お礼を言って外へ出た。雨は止み雲の隙間から陽光がゴッシック風の図書館に降り注いでいた、陽光が植木の葉に留っている雨粒を真珠の様にキラキラと輝かせている、葉の上を雨粒がツーゥと走って下へ落ちタイルの上で弾けて散った、葉は上下に揺れて何度も何度も
お辞儀しているようだった。


 週末僕は自転車で源希義、彼の墓参りに行った鉢伏山の西麓の津崎山を流れる介良川の左岸に墓がある、苔むした五輪塔の前に立っていると彼の想いが伝わってくる。

 鬱蒼と茂った竹林は辺りを薄暗くし昨日の出来事を思い出させ彼が目の前に立っているような雰囲気にさせられる。

 枯れ枝落ち葉を踏みしだく音がする、(え!まさか?)違っていた、中年のおじさんが源希義の墓参りに来ていた、尋ねると子供が弓道大会で優勝したとのことだ、いまだに弓の名人として名高く願掛けのお礼に参っていたのだ。

 地元の人達は彼のことを“まれよしさん”と呼ぶ、希義さんを供養していた西養寺は正徳三年(一七一三)火災で故書も寺宝も焼失してしまっている。

 西日しか当たらない西養寺花熊城跡に別れを告げ、環境に優しく体に良い自転車をキコキコいわせながら高天原の東を目指した、高天原は古墳が八基ある、その東の畑地に愛馬の馬塚がある、南国バイパスと東道路が突き当たった交差点の北西角にある南から、その祠を見ると北東方向むいた木が馬の首のように見え丁度、希義さんの遭難した方向むいて駆け出しそうな…なんだか涙が出てきた、野の花を摘みその祠に供え、今から彼の亡くなった所へ行くんだよ!と声を掛け、小籠の越戸へ向かったキコキコ、カシャカシャ、チエーンの弛んだ音が酷(ひど)く鳴り出した。

 年越山(左折山)は二つに切られている、何故だろう?小籠(こごめ)のほうに二基の古墳、年越山に四基の古墳がある。ここは長岡台地の南端にあたる、弥生時代の田村遺跡である住居が捨てられたあと此の地辺りに住居を移した
と考えられている、母校農業高校辺りから広範囲に広がっている。

 チェーンがガタガタいい出した、希義さんが戦ったであろう厳しい戦(いくさ)に思いを馳せながら、キコキコ途中小さな祠が幾つもある彼ら戦士を祀(まつ)る祠(ほこら)なのかは今はもう定かではない鳶ヶ池中の校門の前に着いた、強風が吹いてきた愛馬青龍が鼻先で僕の体を押してくる様な感覚になる。

 瓦の宮とされる祠に希義さんの遭難の地の杭が立てられている、簡単な説明が書かれていた、中学生が供えたのであろうか今も花が
供えられている。

 馬塚より四キロの道程である、そして夜須七郎行家との約束の深淵神社まであと四キロ思い届かずの道程であった、希義さんの想いは残った、そっと両手を合わせ静かにいのった、風が爽やかに汗をとばしてゆく瞑想を打ち破るようにクラブ活動中の中学生の声が聞こえ始めた。

 キコキコうつむき加減に風に向かい自転車を走らせはじめた。

“パッカパッカ”

 ?????!下を向いた目線の中に馬の脚が見えた、目線を上げようとした時、強風に煽られ目を閉じた、次に目を開け振り返った時、ずいぶん向こうに…

「まれよしさん」

 後姿の馬上の人は右手を大きく上げてくれた。

 源希義・法名を西養寺殿円照大禅定門と云う 二十五歳の若さであった。




―それからー


 夜須七郎行家は仏ヶ崎より紀伊を経由して鎌倉へ兄の頼朝と会い仔細を報告している。

 一一八二年十一月二十日頼朝は蓮池・平田を討伐すべく伊豆右衛門尉有綱をして派兵、夜須七郎行家は有綱の配下として、まとめ役を勤めついに、一一八四年蓮池家綱は家臣である豪族・別府康秀のもとへ逃れんとする途中高岡郡別府荘の近く、越知町遊行寺の辺りで夜須の弟、小塚八郎により討たれている。

 平田太郎俊遠は幡多郡平田村(宿毛市)平田城で有綱・夜須に攻められ部下と共に、打って出たが戦死している。

 また蓮池はもとを近藤家綱・平田は伊勢俊遠と言い平重盛の重臣であった、土佐が平家の知行国となったことから重盛の領国の守護として派遣され、それぞれの地名、蓮池・平田を名乗った。

 伊豆右衛門有綱は、後に義経に仕え活躍するが不運にも義経討伐の命により彼も討手、北条時定と戦い敗れて文治二年六月十六日、大和国宇陀郡で自殺している。

 さて、希義は死後彼の遺体は平家による、後難を恐れ打ち捨てられたままであったが土佐上人介良庄の住侶、琳猷(りんゆう)は見るに見かねて平家勢威強大にも係わらず、死者に罪は無しとして希義の遺体を介良庄槇田郷内に手厚く葬り墓を建てた。

 一一八五年三月彼の遺髪を持って住吉港の東“上人が鼻”より乗船、鎌倉へ行き頼朝に事の仔細を報告、感激した頼朝は埋葬の地・長岡郡津崎山に走湯山密厳院・西養寺を建立毎年供養米六十八石を与え手厚く保護した。

 夜須七郎行家(行宗)はのちに蓮池らを敗ったとき夜須庄の本領を安堵して、一一八五年壇ノ浦の合戦で軍功をたて香美・長岡の二郡を拝領することとなる。

 希義の子、希望(まれもち)は夜須七郎らが希義の実子だと聞きつけ民部大輔行影に相談、鎌倉へ連絡、参州吉良庄(現・春野町辺り)を拝領、吉良八郎希望と号した。

 そう!希義の幽閉された地名介良(古名を気良)彼の時代には気(き)良(ら)と書いていた、一子の希望(まれもち)はこの、きら=吉良をとり名乗ったのである。

 やがて吉良ヶ峰の城主となり吉良氏の祖となる、戦国時代に至っては土佐七守護の一人となり又子孫の吉良伊予守宣経は周防(すおう)大内氏から離れた南村梅軒を招き儒学の一派で、「南学(海南朱子学)」の発祥普及に勤めその行動的な教えは幕末勤皇志士の思想基盤を形成した。

 希義さんの勉学に対する姿勢は決して無駄なものでなく、それどころか土佐を動かすまた日本が動く礎となったことは間違いなかったのである。


おしまい。.


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